老女のスープ | 弁護士谷原誠の法律解説ブログ 〜日常生活・仕事・経営に関わる難しい法律をわかりやすく解説〜
東京都千代田区麹町2丁目3番麹町プレイス2階 みらい総合法律事務所
弁護士20人以上が所属するみらい総合法律事務所の代表パートナーです。
テレビ出演などもしており、著書は50冊以上あります。
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老女のスープ

2026年10月26日

北風が路地を吹き抜けるたび、ゴウタは膝を抱える腕に力を込めた。

両親を亡くし、金もなく宿からも追い出された夜だった。

「誰も自分を必要としていない」

意識が朦朧としはじめたころ、頭の上から湯気の匂いが降ってきた。

「ほら、冷めないうちに」

古びた食堂をひとりで営む、老女だった。ひと口飲むと、喉の奥から順に、自分の体の輪郭が戻ってくるのがわかった。

老女が倒れたのは、ひと月も経たない夜だ。

「あたしが寝込んだら、あの子たちはどこで温まればいいんだろうね」

「僕が作ります。教えてください」

枕元から出てきたのは、角の黒ずんだレシピ帳だった。最初のページに、四つの短い文が並んでいる。

一、誰の、どんな顔が見たいのかを決めてから火をつけること。
凍えた子の笑顔。その一瞬を先に決めれば、今日何を仕込むかは逆にたどれる。

二、鍋は嘘をつかない。
アクを取らなければ苦味が残り、時間をかけた分だけ甘みが出る。手をかけた分しか、味は返ってこない。

三、褒められるために作らない。
「うまいと言わせたい」と思って作った日のスープはなぜか薄い。扉を開けて入ってくる人を幸せにするために作ること。

四、自分はできると信じ切ること。
疑いながら混ぜた鍋は、どこかで必ず手を抜いている。

最初の一週間は散々だった。玉ねぎを焦がし、塩を入れすぎ、火を強めすぎて濁らせた。

「やっぱり無理だ」という声が、そのたびに背中から囁く。それでも彼は、閉まった扉の前に立ち尽くしていた子供たちの手を思い出し、冷たい水で赤くなった指で鍋に向かった。うまくやろうとするのをやめて、ただ工程を積み重ねた。

雪の夜、小さな女の子が震えながら扉を押した。差し出した器を両手で包み、ひと口飲んだその頬に、ゆっくりと赤みが差す。大きな目から涙がこぼれた。

「……あったかい」

胸の奥で、長いあいだ凍りついていた何かが音を立てた。

褒められて得た喜びではない。自分はここにいてもいいのだという、静かな感覚だった。

その夜、彼は同じスープを老女の枕元へ運んだ。ひと口飲んだ老女は、しばらく黙ってから言った。

「……あんた、ちゃんとレシピ通り作ったね」

境遇が彼を不幸にしていたのではない。世界を拒み、手を止めていた自分が、そうしていたのだ。

今日も路地裏には、スープの匂いが漂っている。運命を恨んで泣いていた青年は、もういない。

アドラー心理学で語られる「他者貢献感」とは、「自分は誰かの役に立っている」という主観的な実感のことです。

アドラーは、他者とのつながりや社会への貢献を重視し、人は共同体の一員として他者に貢献することを通じて、人生の意味や充実感を見いだせると考えました。