どんなことでも正当化できるか?
「フランクリン自伝・渡邊利雄訳・中公クラシックス」(201頁)に、次のような話が載っています。
「その男というのは、私の近所の鍛冶屋で斧を買って、その斧の表面全体を刃の部分のようにぴかぴかに磨いてほしいと頼んだ男であった。
鍛冶屋は、もし彼が砥石の車輪をまわしてくれるなら、望みどおり斧を磨いてやろうと応じた。
そこで彼は車輪をまわしたが、鍛冶屋のほうが斧の幅広い表面を砥石のうえにしっかり押しつけるので、車輪をまわすのがとてもつらくなり、何度も何度もその男は手をはなし、どのくらい光ってきたか確かめていたが、そのうち、もうこれ以上光らせなくとも、この程度光ればいいからもって帰るといい出した。
ところが鍛冶屋のほうは、『まだ、だめだ』というのだった。
『もっともっとまわしなさい。そのうちに、光ってくるから。これではまだところどころ光っているだけじゃないか』。
するとその男がいった。
『そりゃそうだ。でも、わしはこのように、ところどころ光ってる斧がいちばん好きなんだ』」。
最初はぴかぴかの斧が欲しかった男ですが、車輪をまわすのが疲れ、もうまわしたくないので、車輪をまわさないことを正当化するため、「ぴかぴかじゃない方が好きだ」と見解を変えた、ということです。
これを読んで、やはり人間は、結果がどうあろうと、自分を正当化するものなんだなあ、と思いました。
イソップ寓話にも、同じ趣旨の話が載っています。キツネとぶどうの話です。
こんな話です。
ある木に葡萄がぶらさがっているのをキツネが見つけ、その葡萄が欲しいと思いました。
ところが、どんなに頑張っても、その葡萄は取れません。
ついにキツネは諦めてそこを立ち去ることにしましたが、立ち去り際にこういいました。
「どうせ、あの葡萄は、まだ熟れていないのさ」(だから、要らないや)
弁護士は、犯罪を犯した被疑者や被告人と警察署などで接見をします。
すると、ときおり、彼らは言います。
「確かに私がやりました。でも仕方なかったんです。なぜなら・・・」
そういえば、ドストエフスキーの主人公が、金貸しを殺害する時も、殺害を正当化する論理を展開していたような気がします。
そう。どんな状況におかれても、自分を正当化したがるのが人間なのですね。
自己正当化は、自分の自尊心を守るためなので、ある程度は仕方のないことだと思いますが、自己正当化をした途端、反省をしなくなり、成長が止まってしまいます。
バランスが難しいところですね。